本文は、関口純氏により執筆された論文『演劇創造と社会活動の互換性について〜演劇空間に世界は如何に書き込まれるのか〜』からの抜粋であり、そこから関口存男に関係した部分だけを取り出し、再編集(&若干の加筆)されたものです。
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【関口存男と演劇】踏路社運動 〜演出家の誕生と関口存男〜<はじめに/1〜2>
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5.芸術と商業に於けるジレンマ
「どんな人が演劇に向くかと云うことは、そう簡単には云い切れない問題である。」(関口,1948)(注23)
このように言いながらも、「演劇に向かない人間」についてはハッキリしている。
「有名だから普通人以上に才能でもあるかと思ったら大きな間違いで、単に何べんも舞台に出たために度胸が出来ているというきりで、それ以上なに一つ取り柄のない人たちが多い。演劇の才能という観点から観るとしたら、むしろ「あなたなどは芝居だけはお止しになった方がよろしいでしょう」と云いたくなるような人の方が多いのを見受ける」(関口,1948)(注24)
この批判の矛先は俳優に向けられているだけではない。背後で有名性=商業性を捏造する大手興行主と、疑うことなく有名性を神棚に上げてしまう無邪気な共犯、観衆にも向けられているのだ。
「少なくとも本邦の現状に於ては、だいいち力量の問題ではない。露骨に云えば偶然の問題、引き手の問題である」(関口,1948)(注25)
「大部分の人が凡庸なのは勿論きまり切った話であるけれども、現在演劇界に於て役者として活躍している人たち位の才能は、どの素人の中にも発見できるのである」(関口,1948)(注26)
こうして職業演劇人の技術に関する専門性を切り捨て、素人の潜在的な専門性、いわば可能性としての<技術>を対置させる。これは商業演劇に対する当てつけに見えなくもない。だがここで大切な点はそこではない。大切なのは、<技術>の習得をもって<演劇>の能力を開花させることが可能であることを表明した点にある。少なくとも大方の職業俳優程度には。
これら一連の発言からは、後の新劇に代表される舞台人、特に芸術派と呼ばれる新劇人に共通したプライドを見て取ることが出来る。更にそこには商業主義に対する皮肉、芸術至上主義的態度が垣間見られる。
そしてこれらは<芸術としての演劇>と<商業としての演劇>という、現在まで続く演劇人、延いては芸術家のジレンマとその構造を示唆している様に思われる。演劇を創造者(もしくは表現者)の芸術作品と向かい合うハイ・アートとして捉えるか、まさに「引き手の問題」だが、観客にとって娯楽として機能すべく努めるある種のサービス業、ロウ・カルチャーとして捉えるかという二項対立的構造である。
この構造は先に見た<踏路社以前の新劇>と<踏路社>、「幽霊」のキャスティングをめぐる<松竹>と<土方与志>にトレースされる。全ては「踏路社運動第一言明表六章」に集約されると見て良いだろう。
外側(周縁)の人間から見れば趣味の問題として片付けられる程度の問題かもしれない。この手の芸術に関わる問題の厄介なところは命に関わらない点である。
3.11東日本大震災の前後を考えてみれば少なからず心当たりがあるのではないだろうか。もちろん例外はあろうが、多くの生活者にとって、少し前(東日本大震災以前)までは原子力発電、火力発電、風力発電、その他なんであろうが電気を供給してくれさえすれば、そしてあわよくば「少しでも料金がお安くなるならばなお結構」といった程度の認識だったのではないだろうか。
だが命に関わる問題となれば話は別である。またその恒久性と流動性のモーフィングこそが世論というものだろう。
ところが文化的な問題、特にあまり馴染みのない世界(例えば演劇)の話となれば「どちらでも良い」という恒久性と流動性の波に身を任せ、偶然の漂着を受け入れるというのが本音であろう。その“本音”すら無意識の為せる技と言った程度の漠然とした認識なのかもしれない。
だが、私たちにとっての<文化資産>としての<プロの技術>といったものが失われていくこと、技術の伝承が途切れ、ある文化が終焉を迎えるということは、人間としてのある種の危機とすら言えなくもない。何故ならば、文化資源に鈍感で命に関わる部分だけに敏感なのはある種の先祖返りである。我々はいずれまた四つ足で歩き出すのだろうか。
もちろん経済競争に負けた文化を太古の恐竜に重ね合わせ、淘汰された文化として、いわば不必要なものだったと位置付けることも出来るのかもしれない。
だが、確固たる基礎を持たないハリボテの文化は液状化した土地に建造物を建てる様なもの。明治初期に西洋文化の波を一気に受け、足袋職人がシャツを作るに至った際、外国人による「White Shirt」の発音を「ワイシャツ」と誤ってヒアリングしてしまい、それ以降、150年後の現在に至っても、疑うことなく「ブルーのワイシャツ」「ピンクのワイシャツ」などと言う立派な学歴を有する知識人、ビジネスマンという名の輩が後を絶たない日本の現状を文化国と呼べるのだろうか。
海外で「スーツの着方を見れば日本人だとすぐ分かる」と皮肉を言われることがあると言うが、果たしてこの様な悲劇を繰り返して良いものだろうか。それを日本独自の文化と言って言えないこともないが、少なくとも、それはその間違いや理解不足が特定の分野に偶然の産物として新たな局面を与えた場合に限るべきだろう。もちろんその場合、それは偶然、運、結果オーライといった類の話であるのは言うまでもない。
理解出来る者が少ないのをいいことに表面的な形だけ繕って次なる文化の担い手を称するとすれば、それは人類文化に対する大いなる欺瞞である。
注釈
(注23)關口存男『素人演劇の実際』1948 53頁。
(注24)關口存男『素人演劇の実際』1948 53頁。
(注25)關口存男『素人演劇の実際』1948 53頁。
(注26)關口存男『素人演劇の実際』1948 54頁。
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【演劇と社会教育】 〜関口存男の実践 著書『素人演劇の実際』に関する考察〜<6>
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執筆:関口純
(c)Rrose Sélavy