本文は、関口純氏により執筆された論文『演劇創造と社会活動の互換性について〜演劇空間に世界は如何に書き込まれるのか〜』からの抜粋であり、そこから関口存男に関係した部分だけを取り出し、再編集(&若干の加筆)されたものです。
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【関口存男と演劇】踏路社運動 〜演出家の誕生と関口存男〜<はじめに/1〜2>
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8.明日の世界は演劇によって再生できるか 〜<空間>に<力>は如何に書き込まれうるか〜
「事実と虚構、現実と幻想の<非差異>を受け入れることこそ、演劇が機能するための条件なのです」(フーコー,2007)(注39)
フーコーによるこの言説は“演劇”について考える上で多くの示唆を与えている。
もしも観客が事実と虚構、現実と幻想の間に横たわる<差異>を受け入れたまま演劇をその思考のまな板の上に乗せたならば、“演じられる事柄”は俳優の生身の身体の中に封印されてしまう。そうなると俳優と観客の時間は平行線を辿り、もはや別の地平の存在となる。これは必ずしも狭義に“同化の芝居”の解体を意味するものではない。
“異化の芝居”に於いても同様で、前提無きところにそもそも異化効果は望めない。その意味で異化効果は同化の芝居の上に成り立つのである。こうなるともはや鑑賞行為の域を超えてドラマツルギーの問題に転じる。
それでは、この「事実と虚構、現実と幻想の<非差異>を受け入れること」(フーコー,2007)(注40)で送り手側、すなわち演劇創造、ないしは演劇創造者にとっては何がもたらされるのであろうか。
それは作品、延いては演劇空間に於いて“虚構や幻想”を“事実や現実”と同等の力をもって対置させることが可能となる仕掛け=<非差異>を手に入れるということに他ならない。すなわち、演劇創造を以ってして<空間>に<力>を書き込むことが可能となるのだ。
1. <非差異>を受け入れるということ
関口は著書『やさしいドイツ語』の中で、自身の手によるイラストに例文を添えるという形式を採用しているが、その中に男女一対の雛人形を描いたものがある。タバコを咥えた女雛と、その隣で女雛を横目に怯えた表情の男雛である。そして以下の例文が添えられている。
「Die Frau habe gleiche Rechte wie der Mann.(婦人は男子と同等の権利を持て。)」(関口,1951)(注41)
これは妻籠でのいわゆる社会活動に於いても重要な指針の一つである。
先に述べた「村長さんはどんな人を選んだらよいか」の公聴会に於いても「老若男女を問わず発言は自由であること」(勝野,1959)(注42)が条件とされている。
戦後、関口が村人たちに向けて民主主義教育の一環として執筆した戯曲「公民館のための芝居 争え、但し怒るべからず」に次の様な台詞がある。これは女生徒たちのケンカを仲裁に入った女性教師と男性教師の対話である。
「柴田先生(女)「それでは日本の女性のしとやかな美しいところがなくなってしまうのではないでしょうか?」」(関口,1948)(注43)
「中村先生(男)「男性の立場からいえば、おもちゃにするには、それはなるほど扱いにくいたくましい女性よりは「しとやかな大和撫子」の方が、手ごろでつごうがいいかもしれませんな。しかし、ご本人のためには、どんなもんですかな。まあ、大和撫子の使命は、大體果されたとみてよいじゃないでしょうか。大和撫子はつまり、昭和二十年八月十五日を以て玉砕したわけです。彼女はりっぱにその本分を尽くしました。しかし今はすでに亡き人です」」(関口,1948)(注44)
ここには古い価値観に囚われている女教師に対し、進歩的な男性教師が“男性の価値観からの解放”を宣言する様子が描かれている。そしてこの男性教師はさらに次の様に続ける。
「中村先生(男)「そもそも日本婦人らしくなろうなどと思って日本婦人らしくなれるものではありませんよ。それよりむしろ「人間として」りっぱになれば、それが一番よい日本婦人ではないでしょうか?」」(関口,1948)(注45)
ここで重要なのは<差異>を受け入れることによる共存ではなく、<非差異>を受け入れることによる共存が描かれているという点である。
「人間として」とは<非差異>の次元であり、ここでは男女という<差異>に対しより上位の、すなわちメタな構造となる。そしてそのメタな構造<非差異>=「人間として」に於いて<差異>=「それが一番よい日本婦人ではないでしょうか?」が語られ、それすらもはや<非差異>の領域に位置付けられているのである。
こうして関口は戯曲「争え、但し怒るべからず」に於いて“<非差異>を受け入れること”をその民主主義教育の理想の下に描くわけだが、これと似て非なる考え方としてダイバーシティ=多様性(注46)があるといっていい。
何故ならば、それは<差異>を受け入れることによって差別を乗り越えようとする仕組みであり、さらにその<差異>を積極的に活用することで創造性に転じようとする試みである。
一見耳触りの良い話ではあるが、<差異>は何処まで行っても<差異>であり、この<差異>に焦点を当てている限り<差異>は存在し続ける。すなわち差別をなくすどころか、むしろ<差異>に一定の場所を与えることで<差異>を<差異>として社会的に温存し続けるのだ。
すなわち<差異>の監獄である。
こうした風潮は、女性、LGBTの差別・権利といった人権問題に限らず、日本文化全体の問題としても影を落としているのではないかと思われてならない。
当然、演劇も例外ではない。観客(消費者としての観客)にとっての趣味性(選択肢)が多様性の下で担保されたとしても、それによって必ずしも演劇創造に於ける多様性が担保されるとは限らないのだ。むしろ「観客動員さえあれば観客が支持しているのだからというなんでもありだという風潮」(植田,2017)(注47)を生み出す要因として機能しているのではないかとすら考えられる。
警戒すべきはフーコーがいうところの<生—権力>としてのダイバーシティ=多様性である。
ダイバーシティ=多様性といった一見、個々の人権、文化的な次元で言えば感性、創造性といったものに配慮されたかの如き甘美な響きは、無個性かつ画一的、現状維持、延いては非創造性の隠れ蓑になってはいないだろうか。
またこのコンテクストに於いて、善意の世論は言論を統制するという、いわばパノプティコンとして機能する危険を有する点も指摘しておきたい。
注釈
(注39)ミシェル・フーコー・渡辺守章「哲学の舞台」『哲学の舞台(増補改訂版)』2007 17頁。
(注40)ミシェル・フーコー・渡辺守章「哲学の舞台」『哲学の舞台(増補改訂版)』2007 17頁。
(注41)関口存男『やさしいドイツ語』1951 151〜152頁。
(注42)勝野時雄「妻籠時代の先生」『関口存男の生涯と業績』1959 292頁。
(注43)関口存男「公民館のための芝居 争え、但し怒るべからず」『教育と社会』1948 57頁。
(注44)関口存男「公民館のための芝居 争え、但し怒るべからず」『教育と社会』1948 57頁。
(注45)関口存男「公民館のための芝居 争え、但し怒るべからず」『教育と社会』1948 57頁。
(注46)経済産業省は「価値創造のためのダイバーシティ経営に向けて」(経済産業省2016)の中で、「多様な人材を活かし、その能力が最大限発揮できる機会を提供することで、イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営」と定義している。更に「「イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営」とは、組織内の個々の人材がその特性をいかし、いきいきと働くことの出来る環境を整えることによって、「自由な発想」が生まれ、新しい商品やサービスなどの開発につながるような経営のことです」とも記している。
(注47)植田紳爾「戦後民主主義と日本演劇の未来」『日本演劇協会会報』2017 1頁。
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執筆:関口純
(c)Rrose Sélavy