我が家は “小さな家” だ
この “小さな家” という表現は各所でたびたび論争を巻き起こす
すなわち、鯔(とど)のつまり、どの程度の広さを指して “小さな家” とするのかが問題となるようだ
とあるライフスタイル系インフルエンサー氏の話なのだが、80数平米のご自宅を若干謙遜も込めて “小さな家” と表現したところ、平米数が同程度のマンション、かつ家族構成もほぼ同人数(むしろ若干多め)という読者の方から「決して狭いとは思いません!」とのご指摘を頂戴したという
結局のところ、住む人間の主観ということになるのだろうが、かつての東京における一軒家信仰は猫の額ほどの庭にも影を落とす
我が住処は東京の新宿区という場所にある
もちろん歌舞伎町のような場所を想像してもらっては困る
ピンクのネオンもなければゴジラが覗くホテルもない、いたって普通の住宅街だ
小さな町をさらに小分けするかの如く敷かれた“束の間の昼寝”と形容されるに相応しいまでの“ささやかな道”には、近隣住人の自家用車を除けば、配達の車やゴミ収集車ぐらいしか通ることもない
そうした静かな地ゆえ、しばしば高級住宅街と称されることもあるにはあるが、正直、私自身そう思えたことは一度もない
確かに、道路1本挟んだ先には “高級住宅街“ といった趣の区画は存在するが・・・そこにはパッと見にも100坪以上のお屋敷が立ち並び、中には1000坪以上と思われる某大企業創業者一族のお屋敷も存在する
どうやら、私にとっては100坪からが “大きい家“ なのだろう
で、50坪前後が普通
そして30坪までが “小さい家” となる
だから我が家は “小さな家” なのだ
子供の頃に暮らした家は50坪だった・・・要するに、これが感覚的な基準になっているのだろう
だから今の家に越して来て「狭いなあ」と感じたという次第である
余談だが、小学生の頃に上記、某大企業創業者一族の御令嬢と同じクラスだった。彼女の1000坪超えのお屋敷に比べれば、所詮、私の家なんぞは50坪程度、東京では若干広めといった程度の “庶民の家” に過ぎないわけだ
ところが、そんな ”庶民の家” も同級生の男子たちの中では “大きな家” とされていた。そこでどうしてそんなことになったのかは未だに分からないのだが、大企業創業者一族御令嬢の “お屋敷” と私の “庶民の家” のどちらの方が大きいかについて、男子と女子の間で言い争い(競い合い)が始まったのだ
ちなみに私と御令嬢、本人たちは質問されたら答えるだけで蚊帳の外。友人たちによるクイズ番組さながらの“代理戦争”形式・・・「トイレ何個ある?」なんていった具合
トイレの数は引き分けだったかもしれない。ちなみに2箇所。しかし、1000坪(※プール付き)と50坪(※雨が降った後には水溜り付き)じゃ最初から比べる由もない・・・子供特有の“無能さ”と“無限の可能性”を感じさせるエピソードだ
まあ、兎にも角にもこうしたこと、すなわち私が新しい家に引っ越した際に“狭い”と感じたことや、同級生が50坪の家をとてつもなく広いと感じた(ゆえに1000坪に無謀な戦を挑んだわけだ)のはあくまでも相対的な感覚であって絶対的なものではない
そして人間というものは、少なくとも感覚に限って言えば幸か不幸か “客観的な感覚” などというものを持ち合わせてはいない
だから他人にとやかく言われるものでもなければ、他人様にとやかく言えるものでもない
ただ、“小さな家” という考え方や、“大きな家” という考え方はあっても良いのではないかと思う
それが何坪(ないしは何平米)までが大きい?小さい?という話になるからおかしくなってしまうのだ
要するに、4畳半の大きな部屋もあれば、100畳の小さな部屋もあるのだ
すなわち物理ではなく、感覚ないしは精神の問題
で、今回ご紹介したいのが ル・コルビュジエ著『小さな家』となります。
1924年、レマン湖畔にコルビュジエが自身の設計で両親の終の住処として建てた60平米(18坪程度)の “小さな家” のお話
すでに完成した設計図(机上で創られた家)を持って土地を探すところからこの家づくりは始まります
まず、ヴィジョンとしてすでに完成された“理想の家”があり、それに相応しい現実の景観を探すというスタイル
現代の我が国における “新築” に関する諸々の機構、そして住宅メーカーの “都合” に毒された現代日本人の感覚からすれば “眼から鱗” といった感が無きにしも非ず
そしてその設計思想においても、切り捨てるべきところは極端なまでに徹底して切り捨て、一見無駄と思われる箇所にこだわったりなんかして・・・
生活信条、ないしは個人の価値観とは何か? といった問題について改めて考えさせられるのです
こうした実は当たり前の部分、いわば生活する上での“前提”は、住宅展示場に足繁く通っても決して見つかりません
むしろ、実在すら怪しい“何処かの誰かの生活”を強要されるのが関の山といったところでしょうか・・・私はそれを、自らの展示場経験から “精神の拷問” と呼ぶ
まあ、それはさておき、自分自身でも“自分の生活” といったものが分かりにくくなっているのが “現代” の一つの大きな特徴なのかもしれません
そして、どういうわけだか・・・
日本人は概ね「皆さん、そうなさっていらっしゃいますよ」に弱い
“選ぶ”のではなく“選ばされて”人生を賭けた買い物をさせられるっていうのは如何がなものでしょう?
もれなくついてくる特典?は「35年ローンに縛られて会社を辞めることができない義務」とかね・・・権利書に透かしでそんな文言が入っていたりして
そうした出来損ないのコピーのような世界を生きる私たち・・・errorとしての人生
そうした世の中にあって、コルビュジエの “小さな家” は私たちに何を語りかけているのだろう?
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ちなみにこの “小さな家” 、その地の町長さんの目にはどうやら “自然に対する冒涜” と映ったらしい。こうした建物が二度と模倣されないようにと、以降この種の建物の建設を禁じたそうである
というわけで、そうした同調圧力と “自らの信念(選択)” の関係について示唆を与えてくれるのもこの “小さな家” の魅力だったりするのだ
“生き方” を考える、“自分の生き方について考える” ということは、単に自身と社会の関係について疑いを持つばかりか、一歩進んでそれらを如何に脱構築すべきかといった問題を孕んでいるのではないだろうか?
執筆・撮影:関口純
(c)Rrose Sélavy