【ものづくりの教科書】<演劇の創り方>では、楽劇座(がくげきざ)のテクノPOPミュージカル『ルーシー・フラワーズは風に乗り、まだ見ぬ世界の扉を開けた』(以下、ルーシー・フラワーズ)の創作過程を通して、演劇やミュージカルがどのようにして創られているのかをご紹介していきます。
第1回は「『ルーシー・フラワーズ』誕生の経緯とその劇作術について<前編>」(作・演出・音楽:関口純)をお届けします。
作品誕生の経緯
『ルーシー・フラワーズは風に乗り、まだ見ぬ世界の扉を開けた』はどの様にして誕生したのか? その経緯と劇作術について書いてみたいと思う。
先ずはルーシー・フラワーズが誕生した背景について。
この作品に先行する作品として『マカロンちゃんの憂鬱』シリーズが挙げられる。実際、このシリーズはルーシー・フラワーズの第1回目が上演される直前まで上演されていた。
『マカロンちゃんの憂鬱』といえば、五條なつき、赤羽みどりの二人芝居として誕生し、のちに原山奈津美を加え、楽劇座の基本3人(演者)体制が始まった記念碑的作品である。その後の作品においても、演者の数が3人以上の場合でも、ベースは3人で、そこに誰かが加わるという形である。
Season2から私が脚本を担当し、退団した原山に代わり、研究生(後に正座員)の齋藤蓉子がレギュラーメンバーとして加入。オリジナルの音楽(歌曲)も加わり、上演の度に曲数が増えてどんどんミュージカル化が進んだ。
個人的な感想としては、“演劇のアンサンブル”という意味では、この頃が今のところ楽劇座の頂点だった様な気がする。ほぼ完璧と言って良い。少々間違えがあってもそれ自体が十分パフォーマンスの一部になってしまうぐらいの勢いがあった。
ところが、赤羽の結婚(と同時の地方移住)でマカロンシリーズは継続断念を余儀なくされてしまった。
新人研修も兼ねた作品創り
残されたのは五條、齊藤の座員二人と入座したての研究生3人。要するに計算出来るのは座員の2名だけ。
この様な状況で出来ることは・・・胃を痛めながら悩みに悩みながら出した結論は「座員2名をダブル主演にして、そこに研究生を出しながら育てていこう」というものであった。
いわば新人研修も兼ねた作品創り。実のところ、こういったやり方は初めてでは無い。齊藤蓉子が加入した時にも同様なやり方を取った。その時の経験があった為、ルーシー・フラワーズの時には、台詞忘れが起こることすら織り込み済みで脚本を執筆することが出来た。これなんかはまさに経験の為せる技といって良いだろう。
またこの作品は、最初から音楽の挿入を前提に構成され、それ(敢えての分断)によって、研究生の危なっかしい演技力をカバーし、芝居がガタついてしまった場合でも、本来のリズムが取り戻せるポイントをあらかじめ創って(仕込んで)おいたのだ。
それが証拠に、座員2人による前半の芝居が長く、且つそこでは音楽は殆ど挿入されていない。また五條、齊藤の座員二人には、本番中、後輩(研究生)がトラブった際になんらかの対応が出来るよう、予め心得てもらっていたのだ。
セリフ執筆に関しても、かなりの工夫というか“心理作戦”の様なものが『ルーシー・フラワーズ』には数多存在する。
その工夫の1つがルー(五條)の長セリフ。下手をすると1つのセリフがA4で2ページぐらいある(笑)それが1作品に数カ所出てくるのだ。セリフの拙い研究生をカバーするには、これぐらいの圧倒する力を用いないと学芸会になりかねない。
これに対し、シー(齊藤)は合いの手を入れる役柄(=役割)だが、この役柄を幸いに研究生の“リズムが不安定なセリフ”にリズムを生み出す役割を担っているのだ。いわば、ルー(五條)はフォワードで、シー(齊藤)は司令塔のミッドフィルダーといった役割。
実例として分かり易いのは八の字眉幸子のキャラクターだ。
『ルーシー・フラワーズ』といえばルー、シー、八の字眉幸子の3人を中心とするお話と思われる方が多いと思うが、大西佐依は当時の研究生3人の中の1人で、彼女が演じる八の字眉幸子は最初のクライアントベイベー(相談者)役に過ぎなかったのだ。
大西は、緊張すると若干パニックに陥る傾向が見て取れたので、本番中にそうなってセリフが飛ぶことも想定して、八の字眉幸子のキャラクター自体を常に“あわあわ“してしまう人物としてしまった。だから、実際につっかえたりセリフを言い直したりしても、お客さんには”演技の一部“に観えるという寸法。
実際、ルーシー・フラワーズの第1回公演は数回上演されてはいるものの、「傷口に塩」(日本酒の銘柄名 ※もちろん架空の日本酒)というセリフを一度たりともちゃんと言えないまま終わってしまった。
後に30分一人で喋り続ける“八の字眉幸子のお取り寄せコーナー”が定番となるが、これなんかは“傷口に塩”の一言が言えなかった為に生まれた“お仕置き”のような一場面である。
私は悪役レスラーみたいなところがあるので、弱点を見つけると執拗なまでにその弱点を攻撃し続けるのだ(笑)
私は常々「楽劇座の作品はドキュメンタリーだから」と発言しているが、それはこうした意味においてなのである。
そのような訳で、『ルーシー・フラワーズ』は成長記録でもあるのだ。
<後編へ続く>
後編はこちら【演劇の創り方/第2回】『ルーシー・フラワーズ』誕生の経緯とその劇作術について<後編>
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執筆:関口純
(C)Rrose Sélavy