次回、10/2(日)20:00~の ”文化村サロン” は、『私たちの知っている”演劇” って何処から来たの? ~日本における西洋演劇史~ 』についてお話させて頂きます。
大正期の小劇場運動から始まる”現代に連なる日本演劇”の系譜、具体的には踏路社(新劇)運動と関口存男にみる現代的演出家の誕生&彼らが日本演劇史で果たした役割、残した課題についてお話します。
踏路社は、その後、戦前・戦中・戦後の日本演劇を支えた、いわば”日本演劇の父”的存在の青山杉作、宝塚レヴューの創始者・岸田辰彌、日本映画最初の巨匠監督とも称される村田實らが参加していた大正時代の小劇団です。その後の日本演劇史に”演出家”としてその名を刻む彼らは、当時は”役者”として参加しており、その劇団に唯一、専任の”演出家”として参加していたのが関口存男でした。
多くの日本演劇史において、現代的な意味での ”演出” を、実質的に最初試みた劇団とされている踏路社ではありますが、その後、演出担当だった当の関口存男がその活動のフィールドを語学に移してしまったこともあり、今となってはその資料の少なさもあいまって多くの部分(活動実態)が ”謎” とされたまま、時には”伝説”ないしは”幻”の劇団と化してすらおります。
こうなってしまった要因の大きな部分としては、関口存男に興味のある語学研究者の興味の対象は、あくまでも”ドイツ語学者としての関口存男”であり、演劇に関わる資料に関しては ”翻訳” 以外見向きもしなかった。逆に演劇研究者の方では関口存男に対し”著名なドイツ語学者” といったイメージが強く、当初、自らの分野の研究対象とは考えていなかったという事情があったものと思われます。
また、関口存男の日本演劇史における業績があちらこちらで証言され、書かれるようになるのは、その多くが彼の死後だったという事情も関係しているようです。ですので、”遺族のもとに残された演劇系資料”の存在については考えもしなかったのでは無いかと推測されます。
それどころか、遺族の方でも”それほど貴重”な資料とは考えもせず・・・実際、村田實の手紙等、歴史上、貴重なやりとりの数々は引越しの際に、何を隠そう、私と母の手により捨てられてしまいました。当時、10代の音楽少年だった私にその”歴史的重要度”など理解できる筈もなく・・・”日本演劇史”よ、申し訳ない!
ちなみに曾祖父さんが書き残したものは全て保存しております。ただ正直、村田實の手紙(女性問題のゴタゴタ等)の方が読んでみたかった気がしないでも無いのですが・・・
私自身、演劇を研究対象の一部としたり、論文を書いたりするようになるのはもっとずっと後の話で・・・はい、これは言い訳です(笑)
まあ、それは兎も角、10/2(日)の ”文化村サロン” は、関口存男の仕事(もちろん演劇関係の仕事)を通し、今まで日本演劇史上、ブラックボックス化されてきた部分を”関口存男が残していた資料(ピース)”で埋める試みともなります。
こうして文字にしてしまうとなんだか ”難しそう” に感じるかもしれませんが、日常的な言葉で、演劇に詳しく無い方にもご理解いただけるようお話しますので、どうぞご安心ください。
”演劇” って今ひとつ実態がつかめないようなところがあって、”演劇ファン” ですら、表面的な”雰囲気”の好き嫌いに終始してしまう傾向にあるように思われます。
今日でも度々問題となる 演劇における”芸術至上主義”傾向と”商業主義” が一体どの様なところから来ているのか? そして、そのあたりがゴチャっとしてしまったのは一体何故なのか? についても解き明かして行きたいと思います。
ここだけの話(100年前の演劇裏話?)なんかもあるので是非、覗いてみてください!
いつものコーナー(オーディション説法・音楽”レコード”紹介・本紹介etc.)もやりますよ〜!
では、10/2(日)20:00~ お待ちしています!
どうぞ、気楽にご参加ください!
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こちらの内容は10月2日(日)20時〜の配信となります。
ご覧になりたい方は、10月2日19時までに下記のページよりにお申込みください。どのコースでもご視聴いただけます。
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執筆・撮影:関口純
(c)Rrose Sélavy