コロナ禍になって以来、あらゆる認識の土台が崩れ去ろうとしている。
医学に象徴される様に、それまでの知見では”全く歯が立たない局面”というものを私たちは経験することとなった。
その筋の”専門家”という概念自体が、どうやら怪しくなって来た様だ。
もちろん、政府の発信する情報が役に立たないのは今更言うまでもないだろう。
私の場合、ここ暫く”演劇”に携わって来たこともあり、どうしてもそちらの状況を一つの判断基準にしてしまう傾向がある様だ。
で、当の”演劇”について言えば・・・
”今までのやり方”について言うならば、基本、「無理だろうな」というのが私の見解。
ただし、それは ”演劇は終わった” といった様なことを言っている訳では決してなく、捨て去るべき”慣習”というものがあるのではないか? ということが言いたいのだ。
そんなことを言うと、「演劇の火を消してはならない!」などという”お叱り”を頂戴してしまいそうだが、その火を消してしまうか否かは、むしろ<残すべき”技術”は何なのか?>といった点に関する問題意識の有無にかかっているのではないだろうか?
まあ、これは日頃(コロナ禍以前)から思っていたことなので、コロナ禍そのものとは関係がないと言えば関係ないのだが・・・ただ、こうした機会に改めてそうしたこと、すなわち、私たちが慣習として”なんとなく”そうしたものと思い込んでいる部分にメスを入れてみるのも、また”生産的”なのではないでしょうか?ということなのです。
政治や選挙の動向を見ていると、改めて「”なんとなく”を繰り返す民族なのだなあ」などと思ってしまう訳ですが、”現状維持”はそもそも幻想です。一瞬一瞬変化しているのが私たちの世界なのです。それが証拠に私たち誰もがいずれは死にます。
大切なのは ”目を逸らしてはいけない” ということではないでしょうか?
”今までのやり方”に関して「無理だろうな」と言ったのは、そうした精神の反映です。
これはコロナが収まれば云々の話ではなく、”本質的に脆弱な部分”が露呈したと考える訳です。
もちろん、人類が伝染性の病を克服するというのであれば話は別ですが・・・
ですので、”残すもの”と”捨て去るもの”を仕分けする時期に来ているのではないか?と提言したい訳であります。
ちなみに、”上演”という形態自体が終わっていると言っている訳ではありません。
ただ、そこに付帯する諸々の慣習にはメスを入れて然るべきかと考えます。
旧態依然としたものに「いつまでも”しがみついてちゃ”いけないよ」と言っているだけの話です。
若者よ、大志を抱け!
執筆・撮影:関口純
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