ざっくり言えば、一つには日本に古くから伝わる演劇の流れというものがあって、そこに明治以降、西洋演劇が流入して、そうしたものへの反体制としての小劇場運動みたいなものが大正時代の新劇運動の始まりであって、その新劇が戦後、ある種の権威、いわば体制側となる頃には、そのまた反体制としての小劇場が台頭し、いくつかの変遷を経て、いつの間にかそれらが主流になったかと思えば、”大劇場で小劇場”をやるというよく分からない状況にこれまた商業演劇が結びついて・・・
と、まあ、何処かの演歌みたいに ”時の流れに身をまかせ〜 ”て来た様にすら思われてしまう我々の”演劇”な訳だが、まあ、大きく文明開化”以前”と”以降”で捉えるとすれば、そろそろ次のフェーズに入ってもよろしい頃かと思う訳であります。
それがメタバースなのか宇宙人の襲来?!なのかは知りませんが、兎にも角にもコロナ禍以降、何か転換を余儀なくされている様に思われてならないのです。しかもそれは、必ずしも悲観すべきものではなく、むしろ希望に満ちたものである様にすら思われるのです。
まあ、そうした訳で、私が考える ”第3の演劇” は、通信技術&テクノロジーと、それらがもたらす可能性としての”新たな表現手法”の開拓、そうした諸々の変化の中での作品創りを意味します。
2020年1~2月、五條なつき(朗読)&私の演奏(シンセサイザー)によって上演された『ラ・ファンテーヌの寓話』なんかは一つの可能性かと。
ちょっとした ”手応え” なんかも感じたりもしています。
私の中で “第3の演劇” は、”音楽”と完全に結び付いているのです。
改めてヴァーグナーは先見の明があったと思うのであります。まあ、彼が広げた大風呂敷は、先ずはこじんまりとした形で回収されるべきかと・・・こちらの方は ”2022年式の感覚” がそう思わせるのかも知れません。
まあ、いずれにしろ、私の二十歳の頃からの理想、”音楽” と ”演劇” の融合については、これからの私の人生において回収されなければなりません。
執筆・撮影:関口純
(c)Rrose Sélavy