和食というものほど酒呑みにその存在の意味を問いかけてくる肴はないのではなかろうか?
と言うのも、子供の頃はお煮しめ、おひたし系のおかずが食卓に並んだ日には何だかとてもガッカリしたものだ。やはり、おかずはハンバーグやステーキ、唐揚げなんてのを以ってして、はじめて“理想のおかず”と言えたのである。
ところがいつの日からだろう? そう、それは我がDNAに適度な損傷が生じはじめたことを何となく自覚しはじめた頃からだろうか? “酒のお供に筑前煮”などという世界観が身体全体の30〜45%ぐらいを支配してくる。
それはまるで、書を極めた者によると思われる妙に説得力のある筆圧で“大人の舌”と大きく書かれた古(いにしえ)の扉を、若干衰えを見せはじめた自らの筋力に勇気ないしは錯覚を与えるが如く目一杯の力で開き、新たな人生のステージにでも到達したかの様なある種の希望、そう、諦めとはまた異なるある種の清々しさを感じないでもない境地を感じさせるに充分な世界観である。
そうした世界観を受け入れはじめると、どういう訳か「料亭の味」「京の味覚」なんて謳い文句にすっかり弱くなるから不思議だ。食にエネルギーではなく、文化を求め出すのだ。ただし、これは至極真っ当なお話で、いい歳をして食にエネルギーを求め続ければ成人病のリスクが高まるだけである。それにしても“成人病”とはこれまた上手いことを言ったものである。
それはさておき、今宵の晩酌のお供は編集部に届いた“博多”だそうな。何を持ってして博多なのか?については、生まれも育ちも東京新宿の私に分かる由もないが、そのお品書きに”HAKATA SELECTION”と記されている以上、素直に博多由来の食材が関係しているであろう食品であることを受け入れたいと思う。
しかも「鶏のうまかもん御膳」ですよ!
博多:鶏のうまかもん御膳をお酒と愉しむ
「うまかもん」なんて言われたら、それはもう、都会っ子の僕なんかは素直に従うしかありません。だって「うま(い)もん」ではなく「うま(か)もん」ですよ!
と、まあ、ちょっぴり嘯いてはみたものの、実はメニューを構成する各料理についての説明(パンフレットの様なもの)が入っていて、各料理の由来の様なものまで知ることが出来ます。
そんなこんなで私の戯言はこれぐらいにして、早速、博多文化の末席に割り込ませていただき御相伴あずかろうなどと思うわけですが、やはりここで酒が欲しくなるのが酒バカの所以。酒に目がない酒バカなのか? それとも単に酒が好きな馬鹿者なのかについては正直、あまり詮索して頂きたくないところではありますが、酒が好きであることは確かです。
ただまあ、“おうち酒場化計画”というぐらいですから、あまり家計にやさしくない酒は頂き物に限ることにして、自身で用意する酒に関しては比較的入手し易いものとすることにしました。
そこで今回用意した酒は、「黒霧島」(焼酎)と「加賀鳶」(日本酒)の2本。
何故この2本だったかと言えば、「九州地方の食材と合わせるならばやっぱり焼酎でしょ?」というステレオタイプの思考と、“イワシ明太焼き”とくれば当然、味は濃いだろうから日本酒は辛口で!とまあ、それだけのこと。
で、黒霧島は昔から個人的に結構好きな焼酎で、もともとあまり焼酎が好きではなかった私が芋焼酎好きになったのはこの黒霧島がきっかけ。ですから、今でも困ったとき(まあ、今回は別に困っていた訳ではありませんが)は黒霧島。
そして、何故また加賀鳶だったのか?と申しますと、それほど意味はありません。ただ先日、食中酒として頂いた際に美味しかったから。まあ、これが第一・・・値段も手頃ですしね。しかし、さらに興味深かったのはこの文字。比較演劇学者の河竹登志夫先生が書かれた文字だそうで、個人的に登志夫先生にお世話になったというのもありますが、河竹家とはそのお父様、繁俊先生の代からのお付き合い。自筆で書かれたお葉書やお手紙も頂戴していますが、その字で書かれたラベル(酒名)ってのも感慨深いものがあります。個人の文字に宿る日常性と非日常性と申しましょうか、それはまるで、見覚えがあるはずの文字による“ケの日”と“ハレの日”みたいな。
といった訳でそろそろ実食。
イワシの明太子焼き
先ずは“イワシの明太子焼き”なるものを食してみる。
腹を空かせた中学生男子の様にガバッとはいかない。そこは大人の嗜みを見せつけるかの如く少量を箸の上にのせ、口に運ぶ。
そして加賀鳶をちびり。今一つしっくりこない。今度は同じ要領で酒を黒霧島のお湯割りに代えてみる。これはなかなか良い感じ! ちなみに、この時の黒霧島のお湯割りは焼酎2強+お湯8弱ぐらいの柔らかいお湯割り。「そんな薄いもの飲めるか!」などとお怒りの貴殿(あなた)、お湯を侮ってはいけません。お湯を制する者はお湯割りを制するのです!
という訳で、さらに特筆すべき点を一つ。実はこのお湯、南部鉄器によるもの。これは是非、お勧めしたい。そもそも我が家には電気ポットというものがない。あの尖ったお湯はどうもいただけない。やはり飲むなら南部鉄器。実はこの南部鉄器、河竹登志夫先生の香典返しで頂戴したもの。う〜ん、登志夫先生と言えば酒や食に造詣が深く、そうしたエッセイ(名著!)も数多く出版されているが・・・それにしても何だか不思議なご縁だ。
そうだ!ここで辛子明太子についての思い出も少々。
今から20数年ぐらい前だろうか? 福岡出身の某俳優さんから「辛子明太子って言うと〇〇みたいに言う人いるけど、地元の人間に言わせると今はこっちの方が全然旨いんだよ!」などという蘊蓄とともに“地元で評判だという辛子明太子”をお土産で頂戴したことがある。正直、その時の明太子が美味しかったかどうかは覚えてない。覚えていないぐらいだから、もしかすると特別美味しいとは思わなかったのかも知れない。ただ、その俳優さんが辛子明太子について自慢げに熱く語っていたその場の空気だけは鮮明に覚えている。
もはや思い出は“食”そのものについてのそれではなく、“食文化”に関する思い出と化している。
一応、お伝えしておくと、私の場合、そもそも辛いもの全般が好きだったりしますので、当然、辛子明太子も大好きです。
で、肝心の“イワシの明太子焼き”はどうだったかというと、そりゃ、まずい訳ないでしょ? これは絶対美味いやつですよ。 美味いに決まってます! そして美味かった!
実は、こうした明太子を腹に詰めて焼いた系の魚料理に関しては以前から結構好きな方だったりしまして・・・イワシでこそないものの、スーパーでよく見かける某魚の明太子焼き3本パックなんてヤツをよく酒の肴に愉しんだものだが、言うまでもなく、その手の安価な製品と本品を比較してはならない。当然、比較するまでもない訳です。
ただ一つ、私が申し上げたいのは「その手のお味がお好みの方であれば “間違いのないお味” かと思いますよ」と・・・老婆心ながらお伝えしたい次第であります、ハイ。
副菜
で、次は副菜について。
先ず、“しらすと小松菜のおひたし”に手をつけてみる。「これは加賀鳶!」雲間から差し込む一粒の光の如く天から舞い降りた閃き・・・なんて大層なものではないがドンピシャ感、ある種の確信に至ったのは事実。実際、黒霧島よりも加賀鳶が正解。
で、次は“がめ煮”に手(箸)を伸ばす。こちらは黒霧島。ただ、個人的にはお湯割りよりもストレートが良い感じ。これは好みの問題だが・・・要するに好みの濃度(焼酎の)で楽しめる一品。こうした煮物と焼酎ってホント合うんですよ。野菜もなんだけど、ちょっと甘めの鶏肉との相性がこれまた抜群! 「寄せ集める」を意味する博多の方言「がめりこむ」が名前の由来だそうな。
副菜の最後(単に私が手をつけた順番)を飾るのは“あちゃら漬け”。なかなかふざけた名前ではありますが、実はこれ、ポルトガル語で「漬ける」を意味する「アチャール」が語源と言われているそうで、安土桃山時代に南蛮貿易により伝わった郷土料理だそうです。「あちゃら」なんて言うもんだから、すっかり「あちら(洋)風」が訛って「あちゃら」になったものと勝手に思っておりました。お味の方は野菜の酢漬けといった趣の一品。これには黒霧島のお湯割り。あまり酒の味が強くなると、こうした繊細な酸味を味わうには不向き。ここは薄めの焼酎お湯割りと行きたいところです。繰り返しますが、お湯は絶対、南部鉄器で!これ前提。
かしわ飯と博多風味噌汁
最後に“かしわ飯”と“博多風味噌汁”をいただく。これ、ホント美味しいです。個人的にはこの“かしわ飯”が大のお気に入り。福岡県産のお米まで付いてくるのですよこれが。普通にお代わりしてしまいました。もちろん、麦味噌を使った優しいお味の味噌汁も美味。特に大根好きにはオススメの一品です。
そうそう、実はこの“かしわ飯”、意外にも黒霧島のお湯割りと合うんです。ご飯が酒の肴というのも若干変な感じですが、意外や意外、これがなかなか。是非お試しあれ! 再三申し上げている通り、もちろん、お湯は南部鉄器で!
さあ、皆さんご一緒に! 「お湯は南部鉄器で!」 はい、よく出来ました!◎
咲耶「鶏のうまかもん御前」
今回お酒と一緒に楽しんだのは、編集部に届いた咲耶(咲耶)のミールキット「鶏のうまかもん御前」(4790円/2人前)。博多の名物が簡単に自宅で楽しめます。公式サイトよりお取り寄せ可能です。
「京のおばんざい御膳」など、他の地域のミールキットも充実しているので参考リンクからチェックしてみてください!
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関口 純/音楽家&劇作・演出家
大衆社会という名の戦場で、その“住処”を鉄壁の要塞と化すことに情熱を注ぎ、かつ、“一人呑み”という名の作戦会議において“食”という名の世界地図を広げることを以ってして戦士の休息とする文士、またある時はミューズの女神に色目をつかいながらもバッカスの宮殿で音楽を奏でる宮廷楽士を下野して地上に舞い降りた吟遊詩人。
芸術を生業とする一家に生まれ、幼少よりピアノ、作曲、演出などを学ぶ。その後、日本テレビ音楽(株)サウンドプロデューサー、楽劇座芸術監督、法政大学地域創造システム研究所特任研究員など。音楽から演劇、果ては研究活動に至るまで「止まれば死ぬ」を人生のコンセプトに“常に”吟遊詩人的人生の真っ最中。