“時代の空気”というものほど移ろい易いものもなく、少なくとも“人生に関わる決断”にとっては最も信用に値しないものであることを心しておくべきだろう
まあ、こんな風に思えるようになったのもそれなりに長く生きてきたからこそであって、中学、高校生ぐらいの時にこうした境地に達していれば、もっと有意義な時間を過ごせたはずなどと思えなくもないが・・・
まあ、それが生きる意味の一つだったりするのかも知れない
そう考えると、釈迦やイエスの生き方は究極の“個人の選択”といった趣がある
だがこれに対し、“宗教”というヤツには多分に“時代の空気”なるものが含まれており、“人生に関する決断”にとっては注意を要する
そして“人生に関わる決断”とは、煎じ詰めれば“日々の何気ない判断”の積み重ねであったりもするわけで・・・
すなわち、肝心なのはある種の句読点としての点ではなく、小さな点の連続としての線なのではないかと思うわけであります
極端に言えば、お茶や湯呑み、水やコップの選択にも人生は宿っていると言える。実際、千利休や北大路魯山人といった人生も可能なわけだから・・・
私自身が実際に体験した昭和後期、平成、現在といった時代を改めて眺め返してみるだけでも充分そう思うに値するわけだが、さらに自分自身が生まれる前の書物、映画、ドラマなどを通し、そうした思いはいっそう揺るぎないものとなる
テレビドラマ一つとっても色々と考えさせられるのだ
確かに映像技術の進化、CG、ドルビーアトモスetc. テクニカルな部分はある意味“進化”しているのかも知れない。だが、それに伴い肝心の“ドラマ性”や“台詞表現”といったものが進化しているとは限らない。むしろ退化していると考える要素すら無きにしも・・・いっそのこと「“進化”も“退化”もあってたまるか!」と言ってしまえばスッキリするのかも知れないが・・・コトはそんな単純な問題ではない
まあ、コンプライアンスも結構だが、そもそも“社会規範”とはなんぞや?そして何をもって“公正・公平”とするのか? 掛け声だけがいいっていうのも考えもので、形式ばかりが先行した結果、却って“不正・不公平”の温床になっていたり・・・なんてことはないだろうか?
・・・とだけ言っておこう。
というわけで、明日の文化村サロンは、前回、前々回に引き続き“昭和ドラマに学ぶ”シリーズの第3弾をお送りしたいと思います。
前回は、思いがけず“歌舞伎”や“興業”の歴史についてもお話しさせていただくこととなりましたが、“サロンは世に連れ、世はサロンに連れ”と、まあ、世が“サロンに連れ”なのかどうかはさておいて、今週もまた何か起こるのでしょうか・・・
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こちらの内容は5月28日(日)20時〜の配信となります。
ご覧になりたい方は、5月28日19時までに下記のページよりお申込みください。どのコースでもご視聴いただけます。
生配信をご覧になれる方は、直接の質問も可能です!(ご予定が合わない方は、1週間のアーカイブ配信をご利用ください)
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執筆・撮影:関口純
(c)Rrose Sélavy