本文は、関口純氏により執筆された論文『演劇創造と社会活動の互換性について〜演劇空間に世界は如何に書き込まれるのか〜』からの抜粋であり、そこから関口存男に関係した部分だけを取り出し、再編集(&若干の加筆)されたものです。
まだご覧になっていない方は、連載の第1回目<はじめに/1〜2>からお読みください。
第1回を読む
【関口存男と演劇】踏路社運動 〜演出家の誕生と関口存男〜<はじめに/1〜2>
続きを見る
4.関口存男の演出術に於けるドイツ演劇の影響
若き関口は、芸術至上主義的傾向の強いカール・ハーゲマンの論考を軸に本格的な演劇活動を開始したわけだが、ハーゲマンからイプセンの自然主義リアリズムを経由して演劇史を遡る形で古典主義的演劇を標榜することになる。若き日の日記においてゾラを知ったことを喜ぶ記述が見られるが、これなどはそのコンテクストにおける「収穫」を意味する。
「一番嬉しい事は「ゾラ」を知ったことである。「ゾラ」の「生の悦」を何気なく買って来て読み出したら非常に面白くなって、頭の中が暫く変化して行くやうに覚えた」(関口,1918)(注39)
関口がミカド倶楽部でハーゲマンを講釈したのが1916年の12月。イプセンの「幽霊」を演出したのが1917年4月。そして上記「日記」の日付が1918年の1月である。ここからハーゲマン→イプセン→ゾラという、まさに演劇史を逆行する形で彼の中の演劇体系は構築されていったのではないかと推測される。
現在とは比べ物にならない程の限りある情報をまさに手探りで収集し、その語学力を駆使し自らの趣味性と論理的な客観性に於いてその体系を構築して行ったと見てよいだろう。
またこうした演劇史に於ける自然主義的リアリズムの全体像を捉えるとともに、作品解釈を根拠としたその<演出術>・<俳優術>についても同様の方法で獲得して行ったものと考えられる。
関口が翻訳した『ラインハルトの演出したる「幽霊」』というヤコプソンの劇評(注40)が遺族の元に残されている。以下にアグネス・ゾルマなる俳優演じるアルヴィング夫人に対する評を引用する。
「アルヴィング夫人をば宛も其の読んでいる解放運動の小冊子をば自分で書けば書けさうな気のするやうな大変な有識の夫人に取り扱ふなどといふことが如何に間違っていたかといふこともこれでわかる。それらの書物はただ大人の心の中に無意識に在ったものをば気づかせるために役立ったに過ぎないのだ。勿論夫人は既に脳膸をも持っており、精神をも具へてしまっている。然しながら其の脳膸なるものは心の中に座を占めている。そして其の精神なるものは本能を出でないのだ」
当然、当時の関口にアグネス・ゾルマなる俳優の演技を観る術はない。写真すら見たことがないかもしれない。だがこうした評から追体験的に戯曲を検証し、その解釈から戯曲の読み方、延いては<演出術>・<俳優術>に至る演劇術、広い意味でのドラマツルギーを獲得して行ったと見て間違いないだろう。
これは関口が独学で身につけたそのドイツ語習得術にも通じるものがある。
5.踏路社運動と学生演劇 〜新劇ネットワークの構築〜
1919年3月、東京女子大学文学部主催の文芸会が開催された。演目は、人文科の学生宮崎ふみ作「石長姫」とストリンドベリ作「母」であった。その舞台監督(演出)を担当したのが外務省勤務時代の関口である。
1918年の夏、踏路社での演劇活動は暗礁に乗り上げたかに思われた。だがその半年後、学生演劇という形で関口の演劇活動は再開される。ここに関口は演技指導として青山杉作を誘った。いわば踏路社運動が学生演劇に引き継がれることになったのだ。そしてこの素人演劇がその後の日本演劇史に大いなる役割を果たすことになる。
ちなみにレッシング作「ミンナ・フォン・バルンヘルム」の日本初演は関口の手による東京女子大学(女優)と法政大学(男優)の合同公演である。他にホーフマンスタール作「エレクトラ」なども関口の選曲による生演奏付きで、大正時代の学生演劇としては相当贅沢に上演されたという。
青山杉作年表(注41)によれば、これらは青山杉作演出と記載されているが、当時の学生の証言によれば、青山は振付等、演技指導のお手伝いに来ていたのだという。
「それにもまして熱心だったのは指導者關口氏である。氏は忙しき中をドイツ語及フランス語から脚本を翻訳し、音楽を色々の曲譜から選んで下さった。氏の懇切なる指導には殆ど感謝の言を持たない。又エロクエション(注42)及振付を手伝って下さった青山氏及セッティングを主に受け持たれた印南氏も色々時間を都合して下すって、一週間に三回の練習日には殆ど欠かさずに来て下さった」(村上,1933)(注43)
「震災後、どこにも舞台のない時、九頭竜女学校の講堂で法政大学の方と女子大の私共の仲間とが一緒になって関口さんの訳でレッシングの「ミンナ・フォン・バルンヘルム」を上演した時のあなたの火のような演出ぶり、一種独特な台詞まわしや振付は、何とあざやかで見事であった事でしょう」(高根,1959)(注44)
築地小劇場を経て俳優座で活躍した村瀬幸子はこの時の女子大生の一人である。関口の長女・充子の幼き日の記憶によると「お下げ髪姿の村瀬さんがウチにお稽古に来ていたのを覚えている」(注45)そうだ。
そして、やはりこの時代に英文科と国文学科に在籍していた安東さん、仁科さんという女子大生二人が後に広島女学院の教師となるのだが、そこへ音楽の代用教員としてやって来たのが中野春子、後の杉村春子である。
杉村は紹介状を手に落合文化村の関口家へやって来たという。募集期間は過ぎていたが、関口の口利きで青山杉作に紹介された杉村は、土方与志の試験を受けて築地小劇場(注46)の研究生となった。その後、友田恭助、田村秋子らによる文学座結成に参加し、文学座での舞台女優としての活躍は言うに及ばず、新劇・マスコミの枠を越え、昭和を代表する名女優となったのは改めて言うまでもない。ちなみに杉村春子の「杉」の字は、青山杉作の「杉」の字から貰ったものである。
また、当時の法政大学の教え子の中からも俳優座の名優三島雅夫をはじめ、数名の新劇俳優を輩出している。宝塚歌劇、東宝、TBSで活躍した演出家・東郷静男も法政時代の教え子である。
「先生(関口)は、「僕には独逸語やる弟子が、それもどこへ出しても立派な連中ばかりが沢山いる。君は独文を選んだが、芝居をやるのがいないから、やってみたらどうだ」という様な事を言われた」(東郷,1959) (注47)
こうして関口は図らずも、大正期の新劇ネットワークのワイヤリング作業に於いて、水面下のキーパーソンとして機能することとなった。
だがその後、築地小劇場の解散にともない青山杉作らにより結成された劇団新東京の講座講師やその上演台本の翻訳に再びその名は登場するものの、それ以降、新劇の表舞台でその名を目にする機会は殆ど無くなってしまう。
ここで興味深いのは、それと軌を一にするかの如くプロレタリア演劇の台頭とともに“踏路社運動の精神”も新劇に於いて衰退して行くのである。だがそれは思わぬところで復活し、<演劇>の枠を超えたより大きな社会運動へと結びついて行くことになるのである。
注釈
(注39)関口存男『日記』1918年1月30日。
(注40)知られている限り未発表の翻訳と考えられる。関口の日記での記述や踏路社同人の証言から仲間内の勉強会等で使用されたものの一部かと推測される。
(注41)「年譜」『青山杉作』1957 96頁。
(注42)エロキューション=発声法のことかと推測される。
(注43)村上包子「文藝会の事ども」『創立十五年回想録』218頁。
(注44)高根包子「関口さんを悼む」『関口存男の生涯と業績』146頁。上記引用の「村上」は高根氏の旧姓と推測され、村上包子と高根包子は同一人物かと思われる。
(注45)1991年6月23日、新宿区の関口邸
(注46)当時、築地小劇場は小山内薫、青山杉作、土方与志の3人の演出家を擁していた。
(注47)東郷静男「先生—芝居—僕」『関口存男の生涯と業績』1959 147頁。
「関口存男の実践編」を読む
【演劇と社会教育】 〜関口存男の実践 著書『素人演劇の実際』に関する考察〜<1~3>
続きを見る
関連記事
【10月2日「文化村サロン」予告】私たちの知っている”演劇” って何処から来たの? ~日本における西洋演劇史~
続きを見る
執筆:関口純
(c)Rrose Sélavy