演劇と社会教育 関口存男 関口存男と演劇

【演劇と社会教育】 〜関口存男の実践 著書『素人演劇の実際』に関する考察〜<1~3>

本文は、関口純氏により執筆された論文『演劇創造と社会活動の互換性について〜演劇空間に世界は如何に書き込まれるのか〜』からの抜粋であり、そこから関口存男に関係した部分だけを取り出し、再編集(&若干の加筆)されたものです。

まだご覧になっていない方は、連載の第1回目<はじめに/1〜2>からお読みください。

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【関口存男と演劇】踏路社運動 〜演出家の誕生と関口存男〜<はじめに/1〜2>

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1.疎開 〜戦後の民主主義教育とその背景〜

 演劇人・関口存男にとって、太平洋戦争は思わぬ収穫をもたらした。

当時、法政大学文学部独文科教授(講師からの在職期間:1922年4月〜1944年1月16日)として教鞭を執るとともに、1938年からはNHKでのラジオ放送「ドイツ語講座」講師、語学書の出版等、すっかり演劇の世界からドイツ語の世界へとそのフィールドを移して久しかった。

ところが戦火が激しさを増した1945年3月28日、東京は目白文化村の自宅から長野県西筑摩群吾妻村妻籠(以下、妻籠宿)へと疎開したことで、まさに偶然の悪戯により演劇の舞台へと再び登場することになる。

 ちなみに何故、疎開先に妻籠宿を選んだかと言えば、当時、関口の著書を出版していた日光書院の社長であり、社会学者としても著名な米林富男(後に東洋大学教授)の誘いによるものだった。

その主筆格であった関口一家と、その弟子の荒木茂雄、画家の木下義兼、社会学者の桜井庄太郎らとその家族、日光書院のスポンサーでもあった桐島龍太郎(注1)一家が挙って疎開したのであった。

 関口家が頻繁に利用していた食堂の長男・古畑和一の証言によると「妻籠には食料が沢山あると言われて皆、疎開して来たんだけど、実際にはほとんど何もなかった」(注2)のだという。

当時、関口家の食料調達をしていた生駒屋の親戚筋で、現・古畑和一夫人、古畑玲子の証言によれば「クリスマスの日、関口さんのところから七面鳥が欲しいと言われたんだけど、それはなんだ。そんなものあるかって」(注3)。こうしたエピソードからは、当時の東京と地方に於ける微笑ましき昔話として、ありがちで素朴な日常レベルの文化的距離の一端を伺い知ることが出来よう。

だが、妻籠宿には妻籠宿だからこそ可能であった、彼ら都会の文化人に活動の場を与えるまでの文化的背景を併せ持つ特筆すべき点があった様に思われる。それは単にその世界観が都会の文化人を魅了するに留まらない。

2.妻籠宿の文化的素地

 ここで妻籠宿の文化的背景についても触れておきたい。古畑夫妻によれば「素地があった」のだと言う。

古くからの宿場町として常に最新の情報が入って来る環境にあった妻籠宿は、村人たちの間に、そうした最新の情報を生活に取り込むことに対して特に違和感を感じることのない柔軟性を育んでいったのだろう。 “旅人がもたらす最新の情報”=“村人にとっては未知の情報”を自らの生活に取り入れ、自らの文化として熟成・継承していくのだ。

3.瓢箪から駒 〜昔取った杵柄から社会教育へ〜

 村では毎年、農繁期後の11月23日に慰労会といった性格を持つ演芸大会が開催される。そこでは、各隣組から代表者(演者)が選出され、芝居や踊りのプログラムが編成されていた。

 関口の回想によれば「私のご厄介になっている隣組でも、女の子たちに何かやらせようといふ事になり、ぢゃあ一つ東京から来ているあのヒゲ爺と、その娘さんとに押しつけろ、といふ事になったらしく、私には何かお芝居のようなものを、私の娘には何か踊のやうなものの指南を頼むと云う申込みがあった」(関口,1947)(注4)とのことだ。そして幾分謙遜の嫌いはあるものの、またこうも書いている。

 「単に東京から来ている文化人で、娘さんが三味線を床の間に置いているから、おやぢさんだって何か趣味ぐらいはあるだろう・・・と云った程度の評価から起った話だったのだろうと思ふ」(関口,1948)(注5)。

 これこそ“偶然の為せる業”である。そんな事情から村芝居の演出を引き受けることになった関口だが一つ問題があった。その時点で本番までの日数が5〜6日しかなかったのである。そんなことから何とか断る口実はないかと思案していたという。

 「娘が、アルスの児童文庫の中に何かあったと云うので、早速調べて見ると、なるほど、娘が昔大勢友達を宅へ引っ張てきて稽古していた記憶のある、坪内逍遥作「いつまでも続くお話」といふ童話劇があった。このままでは少し子供っぽすぎるが、改作すればマア何とか大人にも興味の持てる物が出来ると直観したので、では今夜一晩でこれを脚色して台本を作らう」(関口,1948)(注6)となったのである。

 ここには語学者としての関口、延いては彼がその演劇論の指導的立場にあった踏路社の“テクストにおける演劇観”が反映されている。また、その“社会活動としての<演劇>”という名の<舞台芸術>の一端を垣間見る事が出来る。

注釈

(注1)三菱岩崎家の大番頭という名家出身。自らも三菱財閥に勤務し、その後、上海で新聞社「大陸新報」のオーナーをしていた。評論家・桐島洋子の父。
(注2)2018年9月17日、妻籠の茶房画廊「康」。
(注3)2018年9月17日、妻籠の茶房画廊「康」。
(注4)關口存男『素人演劇の実際』1948 5頁。
(注5)關口存男『素人演劇の実際』1948 11頁。
(注6)關口存男『素人演劇の実際』1948 12頁。

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【演劇と社会教育】 〜関口存男の実践 著書『素人演劇の実際』に関する考察〜<4-1,2>

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執筆:関口純
(c)Rrose Sélavy

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