本文は、関口純氏により執筆された論文『演劇創造と社会活動の互換性について〜演劇空間に世界は如何に書き込まれるのか〜』からの抜粋であり、そこから関口存男に関係した部分だけを取り出し、再編集(&若干の加筆)されたものです。
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【関口存男と演劇】踏路社運動 〜演出家の誕生と関口存男〜<はじめに/1〜2>
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6.アマチュア故の純粋なる芸術創造が生み出したもの 〜プロとアマチュアの境界線〜
“妻籠の若者たちにとっての演劇”に於ける優位性といったものがあるとすれば、それは一体どの様なものだったのだろう。一つには都会との距離が演劇創造の純度を保つ上で大いに利するところがあったのではないだろうか。
その純度とは、かつて踏路社の若者たちを突き動かしたそれであり、東京女子大学や法政大学の学生演劇に見るそれである。そしてそれこそが戦後高度成長期の東京で<新劇>が急速に失い始めていったそれである。
6-2.演劇の尺度
「演劇研究会と白樺合唱団の歩み」という資料によれば、妻籠演劇研究会による演劇活動は1962年に「主として女優難により」その活動を休会したとある。
古畑和一への聞き取り調査でも、休会の理由としては「女優不足」が挙げられていた。いずれにしろ、その活動期間は新劇の衰退が始まる前であり、いわば新劇にとって“古き良き時代”のアマチュア演劇である。
当然、そこには東京の職業演劇人が有する社会的ブランド意識としての“新劇”といったプライドは存在しない。最初から彼らの選択肢に映画やテレビ、CMといったものはなく、演劇という職業としてのヒエラルキーも存在しない。だが、そこには“文化的行為としての演劇”から生み出されたプライド、自負とでもいった様なものを見て取ることが出来る。
古畑和一への聞き取り調査でも「私が新劇なんて言うと、「今はそんなの古いんだ」なんて言われるけど」(注27)という話を聞いた。これは東京で演劇を志す大学生の孫との会話だが、この際の“新劇”という響きからは、主体的に“その創造に関わってきた人間”による、いわば“新劇への<視線>”とでもいった様なものが垣間見られた。
古畑は「私は才能がなかった」と何度も繰り返し謙遜したが、そこから「所詮、素人ですから」といった“大人にありがちな”自らを卑下した態度は決して感じられなかった。仕事の終わった夕暮れ、演劇研究会のメンバーたちが集まりスタニスラフスキーを研究した話などを聞いたが、その演劇に関する取り組みを余暇レベルの話で片付けるにはあまりに生活の中心を成していた様に思われる。
彼らの演劇活動は、改めてプロとアマチュアの境界線について考えさせるに充分な問題を呈しているといって良い。いわゆる画家ゴッホに於けるプロとアマチュアの境界線(注28)である。
もちろん、当時の妻籠の若者たちの技術力(演出術・演技術)がどの程度のものだったのかは今となっては知る由もないが、ここでも先の“5.芸術と商業のジレンマ”で述べた職業演劇人の技術に関する専門性に対し、素人の潜在的可能性を対置させ語られる“技術の習得としての演劇”が顔をもたげてくるのは確かだ。すなわち技術の習得を以ってして演劇の能力を開花させることが可能であることを表明した点である。
それでは、ここで語られている“職業性に限定されない演劇の概念”とは一体どの様なものなのだろう。
これは関口が改作・脚色についての正当性、その根拠としてあげていた“演劇の自主性”に呼応するといって良い。演劇が、社会的に独立した<芸術作品>としてきちんと確立されることで、その社会的評価には商業性とはまた別の次元の尺度がもたらされる。<技術力>という尺度である。
その尺度がプロとアマチュアの境界線に於いてすら機能していないというのが関口の主張である。そして妻籠の演劇活動はその裏返し、職業演劇の世界で失われつつあるこの“演劇の尺度”をその裏付けとしていたといって良い。
関口による“実践的な演劇教育”の場として生まれた演劇研究会であることを思えば当然と言えば当然の話である。だが更にここで注目したいのは、この演劇研究会=妻籠公民館活動がその後、こうした演劇活動を通して何を生み出すことになるのかである。
「その妻籠公民館活動を推進していった者たちが、昭和三十年代後半には妻籠小学校のPTA隣、活動の一環として民族資料の収集をしたことが妻籠宿の保存運動に発展し、全国最初の町並み保存に結実していったのである。」(遠山,2018)(注29)
そう、彼らは<演劇創造>をある種の芸術観で裏打ちされた社会運動にまで昇華して行くのである。そして更にそれが全国的にも拡がりを見せて行くという点も見逃せない。
注釈
(注27)2018年9月17日、妻籠の茶房画廊「康」。
(注28)ゴッホは生前、1枚の絵しか売れなかった。だがそれがゴッホの絵の才能に由来するものでないことは明白であろう。
(注29)遠山高志『妻籠の歴史』2018 171頁。
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執筆:関口純
(c)Rrose Sélavy